やはり「古典」と呼ばれるものには、小説にしろ映画にしろ、古びることのない面白さが備わっています。先だっても児童向け推薦図書の定番のひとつ、『王子と乞食』を読んでうかつにも嗚咽(おえつ=声をおさえて泣くこと)したばかり。私の場合、小学校低学年の子どもがいるものですから、彼らにふさわしい読み物はないかと渉猟(しょうりょう=探して回る)する結果、思いがけない良書との邂逅(かいこう=出会い)に恵まれやすい。しかしそうでなければ、大の大人が児童向けの推薦図書をひもとく機会はそうザラにはありますまい。子ども向け、大人向けなどと選別することの弊害(へいがい=害となること)のひとつですね。とまれ、嗚咽体験をきっかけに、子ども向けとされる「古典」を虚心坦懐(きょしんたんかい=先入観なくありのまま受け入れること)に読んでみたいと思う気持ちは俄然(がぜん=すぐに)高まるわけでした。
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というわけで「原書で読もう」シリーズの皮切りとして、『宝島』を選びました。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』にしかり、本邦(ほんぽう=我が国)の世界に誇る長巻漫画『ワンピース』にしかり、海賊ものの起源といえば言わずと知れたこのスティーブンソンの『宝島』です。「海賊もの」にとどまらず、冒険譚(ぼうけんたん=冒険物語)といえば、すべては『宝島』に通ずると言っても過言ではないでしょう。
それにしてもなぜ『宝島』なのか。私的な事情も多分に含むわけですが、ちょっとだけ種明かしをすると、学習塾インクを立ち上げる前の私は一介の(いっかいの=取るに足らない、つまらない)サラリーマンでした。会社を辞めるにあたっては、相当の勇気が必要でした。長年お世話になった会社です。義理もあれば恩もある。そこを去る私は、たとえて言うなら、多少の嵐ではビクともしない鋼鉄の戦艦から離脱する木製のボートのようなもの。雨除けもなければ風を受ける帆もない、木っ葉(こっぱ=一枚の葉)のような心許ない舟です。そこに家族だけを乗せ、なんの指標もない大海原に漕ぎ出したわけです。
こうなると、自然、海にまつわる物語を求めるようになります。人生のメタファー(暗喩、たとえ)としての海がしっくりくるような境涯(きょうがい=身の上)にあるからだとも言えるし、そもそもそういう年齢に達したからだとも言えるでしょう。いずれにせよ、『宝島』を読むことで、私の木っ葉の行く末を多少なりともたどれるのではないかという当て込み(あてこみ=期待)も、なきにしもあらずなのであります。
何回になるやら見当もつきませんが、これから皆さんといっしょに、少しずつ『宝島』の魅力に迫っていきたいと思います。
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『宝島』(Treasure Island)の作者スティーブンソン(Robert Louis Stevenson)は、1850年にイギリスはスコットランドのエディンバラに生まれました。代表作として『宝島』のほか、かの有名な『ジキル博士とハイド氏』(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)があります。おそらく『宝島』は、『ジキルとハイド』同様、人口に膾炙する(じんこうにかいしゃする=人々の話題にのぼる)わりに、原典そのものはきちんと読まれていない作品のひとつではないでしょうか。『宝島』の初出が1883年で、スティーブンソン34歳の年。この作品をもって彼は一躍有名になります。ちなみに『ジキルとハイド』の初出が1886年。その後家族を連れてアメリカに移住した彼は、自身の健康問題を抱えながらハワイを含む南洋諸島を転々とし、1890年にサモア諸島にあるウポル島に移住して、そこが終の住処(ついのすみか=死を迎えるまで生活する住まい)となります。1894年永眠。享年44歳ですから、現代の感覚では早逝(そうせい=早く死ぬこと)も早逝です。
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今回原書を読むにあたっては、その底本(ていほん=よりどころとする本)としてオクスフォード(Oxford University Press)から出版されている2011年度版ペーパーバックを使用します。また、随所で訳するにあたっては、新潮文庫の鈴木恵・訳『宝島』を参照することとします。
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しかしそれにしても、これは「洋書あるある」というやつで、こと古典的な作品となると、冒頭数十ページはいわゆる「前書き」(introduciton)が占めており、例えば今回の『宝島』であれば Peter Hunt なる人物による前書きが30ページ以上にも及びます。真面目な読者諸氏は、字引き(=辞書)とにらめっこしながらこれをつぶさに(=くわしく)読もうとするわけですが、これはちょっとお勧めしかねます。先述のPeter Hunt なる人物について浅学にしてなんの情報も持ち合わせていない私ですが、それでもこの人が Stevenson 研究の第一人者であることくらいはわかります。英米文学の研究者になりたい諸氏にとっては、ピーター某の書いたものすべてに目を通し、その名を記憶にとどめることは、存命であればなお将来の指導教授になるかもしれないという点で大いに意味のあることですが、さしあたって原書で『宝島』を楽しみたいと思っている読者には、これにかかずらうことで読書のモチベーションが減じかねませんから、よほどの興味がないかぎりすっ飛ばすのがいいと思います。
というわけで、40ページ先まで一気に飛んで、記念すべき物語の1ページ目を開くことにいたしましょう。
いやはや、いきなり地図です。宝島の地図です。ワクワクするじゃありませんか。左下には帆船が描いてありますね。帆走フリゲートでしょうか。右下には16方位、そして島の上にはスケール(縮尺)が記されています。人魚と魚と水鳥に囲繞される(いにようされる=取り囲まれる)額には、《A scale of 3 English Miles》とあります。scale はこの場合は「縮尺」でよろしかろうと思います。1目盛りあたり英国マイルで3マイル、ということです。
で、今回はなんと言っても初回ですから、第1部第1章の冒頭を紹介したいと思います。
Squire Trelawney, Dr. Livesy, and the rest of these gentlemen having asked me to write down the whole particulars about Treasure Island, from the beginning to the end, keeping nothing back but the bearing of the island, and that only because there is still treasure not yet lifted, I take up my pen in the year of grace 17–, and go back to the time when my father kept the ‘Admiral Benbow’ inn, and the brown old seaman, with the sabre cut, first took up his lodging under our roof.
これが冒頭です。息の長い文章ですね。そしてこの一文に、物語のはじめ方の勘所(かんどころ=肝心なところ)がすべて詰まっている。さすがは古典、名作です。
この文章の主節は、三行目後半の《I take up my pen...》で、その直前まではいわゆる分詞構文で、主節を修飾しています。分詞構文は、現在分詞や過去分詞を使うことで、「理由」や「条件」を表すことができます。
Squire Trelawney, Dr. Livesy, and the rest of these gentlemen having asked me to write down the whole particulars about Treasure Island, from the beginning to the end, keeping nothing back but the bearing of the island, and that only because there is still treasure not yet lifted,(...)
太字部分が、分詞構文の主語となります。動詞部分は《have asked》という現在完了形が分詞化して《having asked》 となり、「~だったので…」と理由を表す接続節となります。ちなみに現在完了形を使っていますから、主節の時制より前の出来事を表しています。
【試訳】「スクワイア・トレロニーやリブシー先生やその他のお歴々に、宝島の詳細についての一部始終を、とはいえお宝はまだ掘り出されていないのだから宝島の場所は伏せるとして、それ以外のことを残らず書き出すよう頼まれて(…)」
《keep nothing back but...》は「but以下のものを例外として、それ以外はぜんぶ書く」となります。《nothing but ...》は頻出表現のひとつです。
《that only because...》の《that》はおそらく接続詞で、直前の《keeping nothing back but the bearing of the island》すなわち宝島の場所を伏せる理由を導入するものでしょう。
主節にある《the year of grace 17–》は「西暦17○○年」、《go back to the time when...》は「~していた当時にさかのぼる」という意味で、いわゆる関係副詞が使われています。
(...) I take up my pen in the year of grace 17–, and go back to the time when my father kept the ‘Admiral Benbow’ inn, and the brown old seaman, with the sabre cut, first took up his lodging under our roof.
【試訳】「(…)それでわたしは17◯◯年にペンを取リ、父が『ベンボウ提督』なる宿を経営していた時分、日焼けして、刀傷もあらわな老船乗りが、まず私たちの宿に泊まった時までさかのぼろうというのである。」
冒頭のこのわずか五行に、どうやら宝島をめぐる物語は後日談として語られるものであること、その語り部の「私」は出来事の生き証人として周囲から認知され、それなりの敬意を払われているらしいこと、またこの「私」は根っからの海民ではなく元々は陸(おか)の人間であること、そして物語の発端に刀傷(sabre cut)を負う不穏な人物がかかわっていること……が一気に開陳されます。
どうやらこれから私たち読者が読もうとするのは、「わたし」によって書かれていくものらしい。「わたし」のフィルターを通して、私たちは物語をたどるわけですね。ここに私たち読者は、語り手と共犯関係を結ぶことを宿命づけられている。冒頭から、否応なしに冒険につなぎとめられるわけです。
作家が神様のように登場人物や出来事を采配して小説世界を構築するのではない、「語り手ありき」の小説ですからね。これが信頼できる語り手かどうかという問題もあるでしょう。虚実入り混じること必至でしょうし、レトリックの罠だって当然仕掛けられていると覚悟すべきでしょう。
どうでしょう。児童図書として私たちの目から遠ざけてしまうにはあまりにも惜しい作品だと、冒頭からだけでも感じられないでしょうか。
さあ、物語がはじまります。刀傷の男ははたして何者なのか。「わたし」はいかにして宝島とかかわるようになるのか。次回は第2章以降を読んでいきましょう。
(F)
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